隠州在北海中故隠岐嶋

米子の村川・大谷 両家が竹島渡海を行っていた時期に書かれた「隠州視聴合記」を検討してみます。
(a) 隠州在北海中 故隠岐嶋 [按、倭訓海中言遠幾故名歟]
意訳 隠州は北海にある。ゆえに隠岐島という。訓読みで海の彼方を「沖(おき)」というからか
(b) 其在巽地言島前也 知夫郡・海部郡属焉
其位震地言島後 周吉郡・穏地郡属焉
其府者周吉郡南岸西郷豊崎也
意訳 南東の方にある地が島前。知夫郡・海部郡がある。
東の地が島後。周吉郡・穏地郡がある。
その府(地方の中心地)は周吉郡の南岸の西郷豊崎である。
(c) 従是南至雲州美穂関三十五里
辰巳至伯州赤碕浦四十里
未申至石州温泉津五十八里
自子至卯無可往地
戌亥間行二日一夜有松島
又一日程有竹島 [俗言磯竹島][多竹・魚・海鹿]
此二島無人之地
見高麗如自雲州望隠岐
然則日本之乾地、以此州為限矣
意訳 これより南に美保関まで三十五里
南東に赤崎浦まで四十里
西南に温泉津まで五十八里
北から東までは往く地はない。
北西に二日で松島がある。
またもう一日行くと竹島がある。
出雲から隠岐が見えるように 高麗(朝鮮半島)が見える。
然らば 即ち この州をもって日本の北西限となる 矣
基準は「近」→「遠」で並べてあります。
しかし最後の1行。 ここまで淡々とフォーマットに従って書かれていた文章が
「然則」「矣」 と、強調しまくりです。
(b)島前島後の説明について
方位について 原文を方位に転記すると(距離は 一里=3.9.km で計算)
(図a) 

同じ東を表現するのに「其位『震』地言島後・・・」「自子至『卯』無可往地」 と、二通りの表現があります。
すると、同じように方角で説明があるとしても、その方位の単位が違い、対象が違うと思われるので、(b)(c)に分けました。
ここで、地図です
(図b) 

基準が海の中にある事に注目すべきです。これは、斉藤氏の隠岐認識が島前島後の空間を越えていたことが窺えます。
(c)本州各地迄の距離について
本州側の各地からの距離で示します。(一里=4km)
成り立っていません。
試しに 距離を半分 (一里=2km) にしたら
まぁまぁのいい線が出ました・・・。
しかし、なぜに一里が2kmなのでしょうね。
もしかしたら、地上の一里は4kmで、海上のの一里は4kmなのかも
まとめに 図bと図dを重ねてみます。
1667年に これだけ正確に地理が述べられているのはすごいことですね。
きちんと計測する技術が存在したと思われます。
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- 最終更新:2013-03-01 00:17:47


